推しを推す人生

同人出身オタク女子大生がうっかりSEVENTEENの沼にハマり、推しを見つけるまでに苦しんだりその他推しへの宗教観念について考える羽目になった雑記

せぶちのコンサートで人生が180°変わった話

 

そもそもSEVENTEENの沼に本格的に傾倒するきっかけとなったのは、去年の2017 SEVENTEEN 1ST WORLD TOUR 'DIAMOND EDGE'IN JAPANにうっかり参加してしまい、幸か不幸か初めてのコンサートにも関わらずアリーナ席が当たってしまった事だ。

 

当時、私はジョンハンぐらいしか判別できず、メンバーの名前すら全員言えない状態、曲も有名どころを数曲知っているだけ、ジョンハンだけ生で見れればいいや〜という甘ったれた気持ちで軽率に参加してしまった。

 

 生き地獄の始まりであった。

 

 きらきらふわふわな妖精せぶんち〜〜んたちがあっきんだであじゅないすでマンセマンセな舞台でキラキラしてるところが観れる〜〜!!

といざ蓋を開けてみたら、その予想の半分が正解で、残り半分が予想だにしないギャップのオンパレードだった。脳がオーバーヒートした。

 

 生で見るジョンハニの美しさたるやそれは相当なものであったのだけれどそれ以上に、正直全員赤ちゃんだと思っていたヒポチのゴリッッゴリの雄ボイスのラップに演出、そして完全に幼稚園児扱いしてたじゅんちゃんがまいやいの時に急に圧倒的魔王に切り替わるのを目撃してしまった時、

ジョンハンだけ見れればいいや〜精神だったはずが

もう帰る頃にはほぼ 全員推していた。

特に今まで認識できてなかったはずのじゅんちゃんのことに今まで気づけていなかった悔しさも相まってあの魔王じゅんぴの姿が色濃く脳裏に焼き付いてしまい、その後数週間はじゅんぴのことしか考えられなくなっていた。

夢にも出た。

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↑公式でMVもDVDも出ているのだけれど、あえてマスターさんの動画を貼らせて欲しい。まさにリアルそのもの、これが目の前で行われたという世界線の秩序の乱れ。

 

コンサートが夏休み前にあったというのもハマる原因の一つではあるとは思うのだけれど、大学三年生の夏という時期、本来ならば就職活動のためにインターンなどに参加すべき大切な時期、暴力的に有り余る時間も相まって

推しの動画を狂ったように見て韓国語を勉強する以外に、もはや私の心は救われなくなっていた

それ以外のことをしていると全身をかきむしりたくなるような思いに駆られ、とにかくあの時の私は病的なまでにせぶちという存在に苛まれ日常生活すらままならなくなっていたことだけは覚えている。

斯くして、ここから私の人生が雪崩のように崩れていったのだけれど、それは追々記述していくことにする。

とにかくダイアモンドエッジが大変だったつー話。

 

 

推しを推す人生とその目的と手段について

目が覚めたらもう昼で、ご飯を食べて、シャワーを浴びて、化粧をした後学校に行って、そこからなんとなく推しの動画を見てたらいつの間にかもう外は暗くなっていて、

そこからちょっとポートフォリオを弄って、家に帰ってココアを飲みながら推しのラジオを聞いている。

あまりに日常、私は推しの動画を見たり推しについて語り合ったり推しに対する思いをツイッターに壁打ちしてみたり、推しを推すだけでほぼ1日を終えてる。

「推し」という概念に出会った日から私はこの日常を繰り返している。

 

ラジオを聴きながらふと推しがいない人生を考えていた。

 

普通の、推しがいない人の人生とは一体どういうものなのか。

 

21年間の人生の中で推しという明確な存在がなかった13年の期間、今まで生きてきた人生を二分割しての前半部分、ほとんどその記憶がない。

故に推しがいない人生を想像できない。

 

ポートフォリオを作っていると色々考え事をしてしまう。多分こんな思考になっているのはそのせいだろう。

まかりなりにもデザイン学生である私だけれど、いざポートフォリオを作るというデザイナーらしいことをしてみても、

この先私はこれを本当に心からやりたいと思ってやり続けることができるのか、

という考えにぶち当たってしまう。

好きなことをして生きていけばいいんだよ。

なんていうことはわかっている。

けどきっとそれは自分の人生をかけてまで好きなことを追求しても、その先に何か掴めるものがある人のみに許されることなのだ。

できることなら推しを推すだけの人生を送りたい。

だけどそれはあまりにとりとめもなく、つかみどころもない、本来日常に溶け込ませるようなものなのだ。

その日常に溶け込ませるものを享受し、みんなもう一つのベクトルのものを極めていく。

目的と手段の話。

デザインで生きていくということが目的であれば、推しを推すという行為は本来その目的を持続させていくための手段に過ぎないのだ。

周りにいるデザインをやっている人間を見てみると、〇〇企業のデザイナーになりたいとか、行く行くはアートディレクターになりたいとか、はっきりとした人生目標と目的があってデザインをしている。

私の人生の目的といえば推しを推すこと。

デザインというものでどうにかなりたいとかいう明確な目標がさほどないのだ。

思えばただ絵を描くということが好きで、推しを推す効果的な手段としてデザインというものが最も最適だと思ってこの道を選んだ。

絵を描くのが好きならイラストレーターになればいいじゃん、漫画家になればいいじゃんとは一度考えてみたことがあるものの、私は存外推しを推すという目的のために絵を描くことはできても、絵を描くという行為自体を目的にすることはできないのだ。

持続性と愛が伴わない。

自身の表現にオリジナリティは出せてもそれ自体を自分で愛することができない。

私が愛すことができるのは私という個100パーセントの自身の表現ではなく、自身の表現を手段とした推しを推すという行為だけだったのだ。

 

もし推しを推すことを手段ではなく目的にしてしまえば、それは目標のない目的になってしまいつかみどころもないものになってしまう。

推しに認知されたい、ファン界隈で有名な存在になりたいなどという目標があれば、明確にその行為は目的として成立する。

それらを自身の能力を使って推しを推すという外的な欲とすると、自分の中で完結する欲が内的なものだと捉えている。

とすると私にはそういった外的な欲がそれほどない。

あるとすれば、推しが生きている様をできるだけ多く自分の肉眼で収めたい、記憶したい。日本公演がきたら全通したい、海外公演にも全て参加したい、グッズをなんの気兼ねなく全て手に入れたい、ラジオや放送を余すことなく享受したい。

そういった内的な欲だ。

普通の生活をしている類のオタクにそれを全て叶えることはほぼ不可能であろう。

きっとファン界隈のみんなもそういう欲と折り合いをつけながら生きているのだろう。

それは重々わかっていることだ。

 

ここで推しがいない人の人生について話を戻すと、私はたまにそういう人の人生が羨ましくなる。

常に心の中に推しへの欲の葛藤や好き過ぎてどうにもやりきれない思いみたいなものを抱えずに生きることができる状態が非常に羨ましい。

自分自身の目標と自分の周りにいる人間の人生だけを考えて入ればいいから。

私も生まれながらに推しを推す人生を歩んできた訳ではない。

それなりに健全でわんぱくな子供時代を過ごしてきたはずだ。

いつからこうなってしまったのか。

自分の人生だけをそれなりに考えて生きていたはずなのにいつの間にか推しという他人の人生に重点を置くようになっていた。

きっと私の推しが今活動的な流れの最中にあり、その動向が常に更新され続けているからこそこんな気持ちになっているのかもしれない。

推しの情報というものが途絶えてしまったらもう少し心おだやかに過ごすことができるのだろう。

推しを知りたいもっと情報が欲しいもっと彼らが目指す目標に近づいて欲しい、そういう気持ちともう少し消化する時間が欲しいという気持ちが常にせめぎあっている。

常に消化不良の状態で生きている。結構辛い。

生き急いでいる推しとそして自分。

たまに自分は何に向かって生きているのかわからなくなる。

推しは永遠ではないことはわかっているから、「今」というエモーショナルを追い続けている。

 

もちろん推しがいないという人に会って話す機会もあるのだけれど、そういう人たちが口々に揃えて言う言葉は総じて

『夢中になれるものがあることが羨ましい』

ということだ。

私は今のところ人生の半分を推しを追うことに費やし、それ以前の推しがいなかった時代の記憶がほとんどないためその感情がわからない。

結局双方の無い物ねだりに過ぎない。

 

感情の赴くままに書き連ねてしまったけれど、じゃあ推しに対する思いを捨てて自分のことだけを考えて生きたいとか、こういう人になりたいとか、そういう願望的なのは結局はないのだ。

自分は自分のままで何も変わることはないのだろう。

ただ今まで抱えていた推しを追い続けるという行為の果てのなさや、もしかしたらある日突然その行為が無意味なものに変わってしまうのではないかというちょっとした恐怖感、そういった「今の自分」の感情を文字に書き起こしてみることには意味があると思った。

ただの二次同人描きだったオタクが、これからもおばあちゃんになるまで変わることなくそうだと思っていたオタクが、まさか三次元、それもK-POPというパリピジャンルにハマるなんて2年前まで想像もしていなかった。

人生何が起こるかやはりわからないのだ。

私はその変化の中にある「今」の感情について考え続けて生きたい。

 

 

そして、私の人生の中に推しがラジオで絵本の読み聞かせしてくれる今日という夜がある事実、今同じ時代に生きていることに宇宙規模で感謝し、今日も眠りにつくとする。